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【アラベスク】  第5章 古都の夢



第3節 仮面の下 [12]




 もっとも二人が言うには、許婚というのは形だけであって、どちらも相手を将来の伴侶とは考えていないらしい。
「小さい頃に、親がノリで勝手に決めただけなのよ」
「別にお互いの家で、正式に文書とか取り交わしてるワケでもないしね」
 ノリで勝手に決めるモノなのか?
 理解のできない世界に唖然としながら、心のどこかでホッとする自分がいる。

 ―――― なぜ?

「どうしました?」
 突然声をかけられ、ハッと見上げる。その先で、細く切れた瞳が少し怪訝そうに見つめてくる。
「ひょっとして、本当にお疲れだったとか?」
 その声が、心無しか寂しそう。美鶴は慌てて両手を振った。
「ちっ 違いますっ ただちょっと……」
「ただ、ちょっと?」
 涼しげな瞳。
 せせらぎに添えるなら、自分の足音などよりずっと相応(ふさわ)しい。そんな視線に、絶句する。
 どう言い訳すれば良いのだろう。
 とっさに思いつかず、目を泳がせてしまった途端っ!
「わっ!」
 慣れない下駄に(つまづ)き、上体が揺れる。
 ひえっ
「危ないっ!」
 伸びた両腕が、美鶴の腰にまわる。
「大丈夫ですか?」
 覗き込む顔はもうすぐ間近。息遣いさえ聞こえてくるのではないだろうか。
 腰と背にまわされた腕は見かけより力強く、大きく、暖かい。
 そう、掌の温かさが腰に伝わる。

「京都の夏と言ったら、やっぱり大文字焼きかな?」

 きっかけは、そんな内容だった。





 向かい合って取った夕食。(いろ)鮮やかに盛り付けられた膳を前に、美鶴はどうして良いのかわからなかった。
 これを、懐石料理と言うのだろうか?
 "懐石"の意味もわからないが、きっとそれぞれ意味のある内容なのだろう。やはりフランス料理のように、食べ方や順番などもあるのだろうか?
 そう考えると、どれから食べてよいのかもわからず、困ってしまう。
 そんな美鶴の態度に、慎二が笑った。
「そんなに気難しい顔をしていては、せっかくの食事もつまらなくなってしまうよ」
 そう言って、だらりと胡坐をかく。
「食事は楽しく食べるのが一番さ」
 酢の物を一口でパックリと頬張る。そうしてゴクリと飲み込み、ニッコリと笑う。
「美味しいよ」
 思わず、笑ってしまった。
 この人は――――
 ホンワリとした暖かい気持ちと、どこかキュンと締め付けられるような感情。美鶴の胸に、浮かんで消えた。
 少なくとも、唐渓で人の揚げ足を取り合っているような輩とは違う。
 この人は、そんな人じゃない。
「それにしても、京都は暑いね」
 シャツの胸元でパタパタと仰ぎながら、うんざりと呟く。
「ここはまだマシでございますよ。四条や京都駅周辺は、もっと暑うございます」
「へぇ そうなの?」
「気候と言うよりも、人の熱気でございますね」
 それに っと、宿の女性が背を伸ばして言う。
「暑さも京の風物詩にございます」
「とんだ風物詩だね」
 チラリと美鶴へ視線を投げ、ヒョコッと肩を竦める。
「でも、京都の夏と言ったら、やっぱ大文字焼きかな?」
「まぁ みなさん、そうおっしゃいますね」
「僕、実際に見たことないんだよね。一度間近で見てみたいものだな。ここからも見えるの?」
「ここからは、山に阻まれて見えません」
「みんなはどうやって観てるんだろう?」
「鴨川の納涼床では、大の文字を杯に映して一気に飲み干すと、一年間無病息災だなんて言われているそうですよ」
「へぇ おもしろそうだね」
「まぁっ! だいたい送り火は盆行事でございます。お酒を飲みながらなどと、不謹慎なっ」
 嗜めるような言葉。
「それに納涼床と言っても、きっと人でいっぱいにございますよ。混み合う場所は、暑い暑いとおっしゃる方には無理ではございません?」
「でも、やっぱり京都っぽいよね。納涼床かぁ。いいね」
「風雅を気取って浴衣で物見(ものみ)する方もおられますが、着慣れない方には難儀にございます」
「帯がキツイから? それに、座るのが大変そうだね」
「それに、浴衣はけっこう暑うございますから」
「へぇ そうなの?」
「でもまぁ」
 と、一度言葉を切り
「日本人ですもの。年に一度くらいはお着物か浴衣を召されるのも、よろしいかもしれませんね」
 そう言って居住(いず)まいを正し、自身の着物姿をそれとなく自慢する。
「女性の浴衣姿は、見ていて悪い気はしないよね」
「でも最近の浴衣は、品の悪いモノも出回って……」
 小言のような言い回しに苦笑しつつ、慎二は煮魚を突きながら美鶴を見やった。
「美鶴さんは、浴衣を着たりすることはありますか?」
「へっ?」







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